やっぱり最高級のラブコメ贅沢品です.
告白して結ばれた二人のあとにはさらなる試練,みたいな展開が苦手な人もいますが,私はむしろ大好物というかこれからが本番だと思う派です.
オタクサークルに私も所属してましたが,それなりに女子がいたので完全にはオタサーの姫みたいな展開が馴染みませんが,それでも懐かしい気持ちになりました.
動向が気になるヒロインがたくさんいてそれをしっかりイキイキと描いているので全く飽きずにスラスラ読めてしまいます.
素晴らしい!
こりずに第2弾やってみる.
一応読んだことある作品だけで作りました.
昔々、あるところに、爺さんと婆さんが住んでいました。
爺さんは山へ柴刈りに、婆さんは川へ洗濯に行きました。
おばあさんが河でせんたくをしていると、大きな桃が流れてきました。
おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
そして、爺さんと婆さんが桃を食たべようと切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが生まれてきました。
爺さんと婆さんは、その子供を桃太郎と名付け、育てました。
桃太郎は平凡ながらもしっかり育ち、やがて強い男の子になりました。
そしてある日、桃太郎が言いました。
「鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、悪い鬼を退治します」
そう言って桃太郎はきび団子を作ってもらい、鬼ヶ島へ旅立ちました。
旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
そして、こんどはサルに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
そしてこんどは、キジに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
こうして仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。
鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村から盗んだ財宝やご馳走をならべて、酒盛りをしていました。チャンスです。
桃太郎はその隙をつき、見事に鬼たちをこらしめました。
最後にはとうとう鬼たちが、「まいった!降参だ。助けてくれ!」
と、泣きながらあやまりました。
桃太郎たちは、鬼から取り上げた宝物を持ち帰り、婆さんと爺さんの元に帰りました。そして彼らは、宝物のおかげで一生幸せに暮らしましたとさ。
前回 と比べてキレがないなぁ.
中々コレ!と言ったタイトル出てこないものです.
次回は題材を変えてもう少し凝ったものにしたいですね.
俄に盛り上がる界隈での何故ライトノベルがバカにされるのか?問題にありとあらゆる武器で切り込むラノベクラスタたち.
私も尻馬に乗ってどの記事にもリンクを送らずに好き勝手エントリ書きますが,とりあえず色々思い出したものをひとつ.
実際ヲタクコンテンツの中でも屈指の叩きづらさを誇るのが小説を媒体とする作品だと思います.
なんでかというと,他の形態と比べて,内容を楽しむには個人の教養やら知識やら想像力やらがモロにフル動員されるからです.
わかりやすく図にすると以下のようになります
小説には独特な「行間を読む」という作業が発生し,結果的に大なり小なりの色々な”解釈”を生みます.
なのでその構造上,同じ小説に対して叩いている人と擁護する人が同時に発生すること自体は実は当たり前なのです.
先ほど叩く難易度が高いと言ったのは実は語弊があって,正確には
「しっかり読んだあと,皆が納得する理由で叩く難易度が高い」のであり,
結果的によく噛み砕かずに特に推敲もしてない,そもそもほんとに読んだのかも疑わしい(というより読んでない)感想や先入観が蔓延する意見が沢山出てしまう土壌が元々あるのです.
認めましょう.
小説を真面目に楽しんで,わいわい批評すること自体,
(他のエンタメと比べて。)
しかしここで改めてライトノベルにフォーカスを当てましょう.
そうです.ライトノベルこそが,
例えばラノベには他の小説エンタメには無い要素があります.
とても大事なものですよ.
そう,
キャラの表紙,カラー口絵,挿絵です.
このイラストの力についてはラノベ読者なら当然容易に実感するところでしょう.
演出として迂遠で曖昧な情景や描写も一気に補強するその威力は
我々読者の理解を強制します.
その結果,別に内容を読まなくてもヒロインの可愛さやテイストを確認できるし,
読者同士でも流石にキャラクターの容姿に解釈のズレはなくなるし,
キャラについては比較的語らいやすいですよね.
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」が出た当初は単純にあの「十三番目のアリス」の伏見つかさ先生がなんか長ったらしい作品を出したとしか思わなかったですが,
その後メキメキと売れてそれ以降の長文タイトルの隆盛に一役買ったのは間違いありませんね.
長文タイトルも新聞のテレビ欄と言ったのは賀東先生でしたか.
つまりは実際の鑑賞前の理解のため.
これもハードルを低くする工夫です.
― GA文庫『のうりん』 挿絵より
「のうりん」が我々読者に与えた衝撃は大きいですね.
元々フォントを大きくしたり,太字にしたりする作品はありましたが,
作為的なイラスト配置,フォントをいじるタイミングなど,特に工夫が読者にも明確に伝わる「のうりん」は最高にエキサイティングでしたね.
また去年話題になった「僕は友達が少ない」のテーブルの見取り図の挿入も記憶に新しいですね.
これについても色々と議論が紛糾しましたが,まぁそれはともあれ私が言いたいのは,
結果的に概ね目的が分かりやすい工夫は,ハードルを下げるということです。
メディアミックスとラノベは相性がいいです.
一番最初に貼った図を思い出してみてください.
小説媒体の原作は非常に多岐にわたる解釈を生みます.
すなわちそれだけ,読者の認識のズレを許容する土台が有るということです.
メディアミックスによって多チャンネルで広がっていけばより多くの人の目に触れる機会も増え,
さらに自分が触れたチャンネルを通してそのコンテンツを消費する上で,
”小説が原作である”ことそのものが作品を楽しむハードルを下げる.
それは普通に考えたら真面目に馬鹿にするのには
(読者同士の想像の介在余地が大きすぎて議論が基本的には発散してしまうほど)
ハードルが高い小説媒体なのに,
ハードル下げて色んな人にわかりやすくして,工夫した結果
簡単に気軽に馬鹿にされるほど台頭したからです.きっと.
それは普通に考えたら真面目に真っ向勝負で擁護するのには
(知らなきゃいけない事が多すぎて)
ハードルが高い小説媒体なのに,
ハードル下げて色んな人にわかりやすくして,工夫した結果
簡単に気軽に擁護できるほど愛されてしまったからです.きっと.
ここいらで筆置きます.
リココ